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血のステップで踊りだす、新時代のバンパイア映画
『アビゲイル(Abigail)』は、2024年に全米で公開されたホラー映画。
その名は静かに、しかし確実にジャンル映画の新たな血流として注目を集めている。
監督は『スクリーム』最新作や『レディ・オア・ノット』で知られるマット・ベティネッリ=オルピン&タイラー・ジレットのコンビ。
主演は新人アラナ・ボーデンが演じる“少女アビゲイル”。彼女の存在が映画を決して「子供向け」にしない凄みを帯びている。
本記事では、『アビゲイル』の物語構造や演出手法、そして“バレエ”と“吸血鬼”という異色の組み合わせが持つメタファーについて深く考察する。
あらすじ(※ネタバレ軽度)
とある富豪の娘“アビゲイル”を誘拐し、10時間監視すれば報酬1,000万ドル。
そんな甘い話に飛びついた6人の犯罪者たちは、郊外の邸宅に彼女を閉じ込める。
だが、目覚めた“アビゲイル”はただの少女ではなかった――。
少女の正体:クラシカルな“吸血鬼”のアップデート
アビゲイルが実は“ヴァンパイア(吸血鬼)”だったという展開は、ホラー好きなら予想がついたかもしれない。
だが本作が見事なのは、アビゲイルをただの怪物や加害者として描かず、彼女自身も「囚われた存在」であることを明確にした点だ。
この“二重性”こそが本作の鍵。
観客は最初、誘拐犯たちに同情し、アビゲイルを「恐ろしいモンスター」と見なす。
だが物語が進むにつれ、アビゲイルこそが“純粋な存在”であり、逆に彼女を利用し続ける“大人たちの世界”が化け物であることが露わになる。
バレエ×ホラーという異質な組み合わせの意味
アビゲイルはバレエを踊る。
その姿はまるで天使のように無垢で、美しい。
だが血まみれの彼女が華麗にスピンする姿は、観客の倫理観を静かに破壊していく。
なぜバレエなのか?
バレエは、規律、犠牲、身体の限界との闘い。
それはまさにアビゲイル自身の人生そのものだったのだ。
彼女は人間社会の中で、吸血鬼として「美しく生きる」ことを強要された存在。
バレエとは、彼女に課された“人間らしさ”の象徴であり、
それを脱ぎ捨てる=本能のままに血を求める時、彼女は初めて「自由」になる。
登場人物たちの“死に方”は彼らの罪に比例している
アビゲイルに殺される犯罪者たちは、単なる犠牲者ではない。
それぞれに過去があり、罪があり、誰一人「完全な善人」ではない。
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ナイーヴな理想家は「優しさ」で死に、
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子供を見捨てた男は「父親」に殺される。
まるでそれぞれが、自分の過去と“因果応報”で向き合うような死を迎えるのだ。
アビゲイルはただ殺しているのではない。彼女は“裁いている”。
父との関係──『レオン』の裏返し
本作の核心の一つが、アビゲイルと父親の関係性にある。
彼女の父は表向き「娘を愛する」存在だが、実際は娘を自らの利益と誇示のために監禁している。
ここには明確に、1994年の名作『レオン』へのアンチテーゼがある。
レオンがマチルダを「守った」のに対し、アビゲイルの父は彼女を「利用」する。
父性とは何か、親が子を所有することの恐怖――その問いかけが、この映画の血に混ざっている。
ラストの意味:少女は怪物か、解放者か?
ラストシーンでアビゲイルは、すべての“枷”から解き放たれる。
だがそれは“人間社会”への回帰ではなく、“怪物としての誇り”を手にする瞬間だ。
これはある種のカミングアウト譚とも言える。
「人間のフリをして生きることをやめる」という選択は、
本当の自分を取り戻すという意味で、非常にエンパワーメント的である。
ホラーでありながら、解放と自己肯定の物語として着地している点に、作り手の知性を感じる。
終わりに:血は恐怖ではなく、自由の象徴だった
『アビゲイル』は、ただの“ヴァンパイア映画”ではない。
それは、“少女”という存在に押し付けられる純潔、従順、弱さといった神話を、
文字通り“血”によって打ち破る物語だ。
彼女は殺した。だがその行為は、“生きる”ための闘争だった。
観客はその姿に恐怖しながらも、どこかで喝采を送りたくなるのだ。
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